6月28日

 最近は冨に古くからの、と言ってもせいぜい20年前だが、とにかく以前知り合って、年賀状のみのお付き合いなどといった方との再会がある。一件のみは36年ぶりという、とてもそれはそれは懐かしいものがあった。女友達であっても、待ち合わせの時間には、ドキドキした。“待ち合わせ”という絵が出来たけれど彼女はそのことはご存知ない。
 この夏、田川市で45回目になる展覧会ができるが、これは15年前にニューヨークでの出会いがあってのこと。年賀状のみのお付き合いだったが、展覧会場の隣の部屋に多田祐子の絵画があったらなー、と思ってくださったことが実現する。彼女は妄想している、と言っておられたが、それが2会場での展覧会、現代美術ギャラリーto.ko.po.la と 田川市美術館での展覧会になった。8月21日からのスタートで、11月24日までの長期間。市美術館は8月26日〜31日までだが。そろそろDMが出来てくる。
 先日6月22日のシャンソン歌手東丘いずひ のコンサートに行ったがここで思いがけない人物と再会。私が31才の頃に銀座のはまのや美術サロンで第9回目の展覧会を開催中の時に偶然観に来られた方があって、私の絵にいたく感動なさったらしく、芳名帳にメッセージを残されて翌日も来られたのだが、翌年からはその方の甥御さんが展覧会に来られるようになり、やがてその甥御さんは青年海外協力隊員としてセネガルやチュニジアに赴き、お会いすることも稀になっていた。それが、古賀政男記念館でのシャンソンコンサートで、ばったり、びっくり、どうしてここに、とお互いが長い間の無沙汰詫びをしたのだった。で、近年私の絵画がエルミタージュ美術館に収蔵という大事件があったことを伝え、おじさまには是非このことの報告をとお願いしたのだった。甥御さんの彼は最早40才をすぎたものかどうか判らないが、以前と少しも変わってはいなかった。
 さて、昨日一緒に、「かっぱ村」の公報発送準備をしてくださった友達は、やはり23年ほど前にご主人の焼き物、“器”を売っておられ、当時まあいわば沢山買った立場の私と友達になった。それがその陶芸家のご主人が突然亡くなられて、お店もなくなり20年程が過ぎた。それが3年前に横須賀の街で偶然会って、かっぱ村にも入村。かっぱ村30周年記念のTシャツをデザインの上に作ってくださった。ちなみに今かっぱ村は発村33年。彼女、今度は私の絵画を買ってくださったのだ。2年前のこと。
 今日は以前葉山に住んでいて、よくお昼ご飯を一緒に食べたり、短歌の会で勉強したりした“ひろこ”さんと思いがけずに会った。彼女も私の絵を何枚か持っているコレクターだ。新しい名刺をお渡しした。エルミタージュ美術館収蔵作品を印刷してある名刺を。夕刻だったからゆっくりとはできずに、逗子駅までの間に車の中でのおしゃべりをお互いに早口で、近況報告に終わった。
 なにやら古い友達というものもとってもありがたいもののひとつであることよ。ほんわか、ほんわかのこの頃。

ヌーボージャポニズム

 今、ヌーボージャポニズムと称して“日本ばやり”だが、'97年9月のフランスにおける日本年、翌'98年の日本におけるフランス年と続き、横浜で開かれ日仏現代美術博では、かの有名なフランソワーズ・イカールさんからの賞や建築界の大御所クリスチャン・ラングロアさんからメダルをいただいた。'99年にはミレニアムジャパンウィークがフランスのリヨンであって2.000年大賞とオーディトリウム賞のダブル受賞を受けた。フランス以外の国々でも様々な催し物があった中で、パリ国際芸術祭は何処が主催・企画したものか調べる暇がなかったが、仏側のグラン・フォン・ブラン協会から特別名誉作家認定をいただき、芸術功労賞を受賞したのは2002年7月。
 さて、本日6月19日の朝日新聞で、元駐仏・駐印大使の平林 博氏が、「首相は国家ブランドを高めよ」という事を書かれ、来る洞爺湖サミットでの首相に対するエールを送っている。笑顔で世界に向かって話しかけてほしい。さすれば日本のイメージが上がるだろう。首相の立ち居振る舞いがブランド強化への一歩になる。とあり、フランスは国力はトップとはいえないものの国家のブランド力は抜群だ。日本は持てる経済力や文化力ほどのブランド力を発揮していない。とおっしゃっている。
 徳川幕府の鎖国制度260余年は日本を世界から隔離したことで良いこともあったし、開国が良かったことも明白であって、今日の日本が繁栄を続ける文化国家にほかならないのは喜ばしい限である。
 しかし、国際文化交流を続けてきた身の自分は、外務省の外郭団体がいう“政府にはとてもお金が出せないので、民間の力をお願いしたい”とおっしゃってはばからないのには、私の耳には落胆の祝辞であって、もはや20年に渡って国家ブランド力を高めようと”笑顔”も振りまいてきたものには、不快な一言であった。
 たかひかるひつぎの皇子(みこ)、皇太子さまはにこにこと今ブラジルに渡っておられ, 国家ブランド力を発揮なさっていらっしゃる。比較するつもりなど以ての外なれど。
 世界中が日本に注目の近年、ヌーボージャポニズム、福田首相しっかりね!

6月14日 岩手・宮城内陸地震

 昨日の朝つまり14日に起こった震度6強の「岩手・宮城内陸地震」は、今日になって衝撃も新たになった。地震直後の連絡で、私の実家は大丈夫だった。停電しているだけです。という甥からのメールや、昼過ぎの弟との携帯でのやりとりでも大丈夫とのこと。どの程度の大丈夫かは私にはわからなかった。まあすこしは物が落ちてきたりはしたのだろうと、想像した。ニュースではしきりに栗原市の名前が出る。栗原市は3年前に10ヶ町村があつまって発足した。その中に私の生まれた若柳もはいっている。9時半頃から、地震お見舞いの電話が入り始めた。みんな心配をしてくださる。ニュースでは余震も伝えている。奥州市にも知り合いがいる。みんな無事だろうか。そうそうTELは使えない。緊急連絡等にじゃまをしてはいけないと冷静になってみる。
 夜になって、従弟にもTELが通じる。校長先生の彼の学校は体育館の窓ガラスが一枚われたくらいという。若柳にある私の母校からメールが入っていて、ここの小学校は理科実験室の器具類が落ちて割れた程度の被害とのこと。その程度で済んで良かったと眠りについた。亡くなられた方々や、まだ見つかっていない方々もおられるし、駒ノ湯温泉の惨事もあったが、心静めに読みかけの本を読みつつ。
 さて、15日の朝刊を開くと、大きく崩れ落ちた道路があってここは昨年の秋、車で通った事のある道。ご案内いただいた人の家も此の当たり。慌てて
電話を。幸いご無事。少々家が傾いたとおっしゃる。目と鼻の先とも。朝早い時間で土曜日ということが幸いしたかもしれない。そうそう車が通る道でもない。紅葉の季節なら走っている車が多かったかもしれない。しかし新緑を見にバスを仕立てて行かれた方達がいらしたから、なんともいえない。
この土砂に埋もれた何かがあったかもしれない。今ニュースが駒ノ湯温泉の3名が遺体で見つかったと伝えている。関係者にはお悔やみを申し上げます。
 私の姉は高校時代に山岳部で駒ノ湯にはよくお世話になっていたし、知り合いの高校の先生には後輩がここにいるとのこと。泣き虫の先生の後輩かもと思うと、身近な想いの気の毒さが在る。
 若柳の友達は藏の壁が落ちたり、燈籠が倒れたという。もう一人は金成というところに住んでいるが、コレクションの大きい器がふたつ落ちて割れたそうな。まだまだニュースがたくさんの怪我人や行方不明のいることを伝えている。
 仙台市に住む知り合いは、洋服ダンスが倒れて、皿類も散乱しているが、もう慣れてしまったから、一週間位掛けて片付けるよ。と言ってガッカリしていました。皿類というのはお店のことで、積み上げている皿がまたもや割れてしまったもので、慣れたというのは、宮城沖地震があったり、30年前にも大きな地震がありましたから。
 地震は本当に怖ろしいです。気を付けるというわけにはいかない自然現象。被災者にお見舞いを申し上げるしかない。そしてお見舞いTELをくださったかたがたにはお礼を申します。

6月13日金曜日 happy Friday

 13日の金曜日は、Happy Friday というとニューヨークで教わった。今日はHappy friday よ!って自分の絵の売り込みをしたかったが、お天道様がおちついていて、風もないので、先日届けてもらったキャンバス30枚に地塗りをした。ベランダいっぱいに並べて。5回ほど塗って、18センチあるベランダの
手すりにも並べた。たいわんリスが歩けないようにと。午後3時過ぎ出掛けて用事をすませ、夜露が落ちてくる前に仕舞おうとすると、なんとたいわんリスが歩いた跡がくっきり。せっかくわたしは手すりには色を付けないように気をつけているのに、両手両足の裏に色をつけたままうろうろしたらしく、手すりには本日の地塗りの色、コンポーズブルーがきらきら。細い電線を渡っていくリスに厳しい目を向けるもあのリスとはかぎらない。
 最近の多田祐子は自分の絵画が1,000年は持ちこたえられるようにと、地塗りから気をつけている。それを知ってか知らずか、足跡を描き入れてくれた。愛する国家のため、国力を少しでも支えんと考えているというのに。最近は経済的に困難を来しているとはいえ、源氏物語1,000年の今年にあやかって、私もこの先1,000年を思って制作、創作しているのです。My God に捧げんと。

6月10日 日印芸術神話大賞

 昨年の2007年はインドとの文化協定締結50周年に当たり、いわゆる、インドにおける日本年でした。わたくしはそのことは知らなかったのですが、文化交流の線から発行された“日印芸術幻想伝〜神話に記されし和の継承者たち〜”という分厚い文献、美術誌に、私も推薦があって、作品を発表したのでした。私の担当者に絵の選考を任せ、数ある中から、“桃花の里”=つきのさと(と読む)を選んでくれたのでした。掲載料が要るので、何回か断って、それでもインドということもあり、仕舞いには承諾した一件です。ニューヨークで常設画廊としてお世話になっている画商さんがインドの方。2001年9月11日の大惨事の直ぐあとの個展では、ホテルをキャンセルさせて、長いこと私をご自宅に泊めてくださり、毎日バスとサブウェイをご一諸したのです。バスの中から見ると大惨事あとからはまだ煙が立ち上っていて、悲しい気分が押し寄せてきた。で、インド、とてもお世話になっている。なにかしらの繫がりがある。
 というわけで、発表した作品に、賞状が届いたからびっくり。表彰状があるということは考えなかったのです。文献だから。実行委員会での選考会議の結果ということで「日印芸術神話大賞」をくださった。もう一週間は過ぎたろうか。桃花の里、つきのさとは、一面の桃の花で、大きな丸い月があるだけ。月が桃のはなを照らすのか、桃の花が月を照らすのか、といったところ。まあ日頃悪態をついてばかりいる多田祐子にまったくもってありがとうございました。ところで、もう一つ賞が来るらしい。のです。
 5月24日〜27日まであった世界芸術競技in北京2008/北京市 における展覧会が終わった。四川省のあの大地震があって、展覧会どころではなかったろうに、昔あった芸術の方面でのオリンピックを覆活させようという企画が昨年からあったらしく、私も持ち出されたのだが、これも大いに悪態をついたあげくに出品した。北京に行った関係者さんからの報告では、なにやら表彰状が届くらしい。正式にはまだなのでなんともいえないが”昇龍賞”といった賞らしい。出品料が終わっていないので、戴いたとしても気がひけることだ。こちらの方の作品は”海辺の調べ”。明るい良い作品なの。
この2点は、先のが30号、後のが20号サイズでした。後の方は話しだけでもありがとう。では今日はこの辺で。

6月7日 庭に咲く花

紫陽花の葉が尺取り虫の餌になり、すべて葉脈のみになってみすぼらしく見えて久しい。餌の紫陽花の葉がなくなって尺取り虫は何処へ行ったのだろう。
さて、虫は蝶になると思うのだが、尺取り虫はそのまま?それとも変化してなにに?そんなことを思いめぐらしているとき、紫陽花はみすぼらしい葉脈の
脇から新芽を育んで新たな葉をつけていることに気がついた。なんという健気さ。今朝夫も気がついたらしく、新たな小さな葉を育てようと、みすぼらしい
葉脈を剪った。丁寧に。今からでも花が咲くものかどうか。径の反対側に植えた紫陽花は今咲いている。山土の所為で花の色は“白”。青い紫陽花をいただいて挿し木にしたのは20年以上も前。以来花は白に変わり、うっすらと水色やピンクをおびる。道行く人が白い紫陽花をめずらしそうに眺めて通る。
ここは腐葉土で山土ばかり。肥料をやらないわけではないが、酸性土で白い花が育つ。いまカラーの白い花がやはり白い色をした露草の間から咲いている。
露草はふつう紫か青。春早い時期には二輪草が白い花を付けてたくさん咲く。雪の下も白い花をつける。今はドクダミの十字の白が、露草とは分け合って
右側に咲いている。もう少し右サイドには白詰草があって、この白詰草を私は増やそうと苦心するが、駐車場なので難しい。そういえば、花壇には今さつきの花が咲いている。忘れたのかと思いきや6月にはいって咲き始めた。陰暦では今が5月。今日は5月4日。宮城の北部から父が挿し木で育てて送ってくれたもの。向も今頃咲いているのかもと思うと、これもまた、いじらしい。花壇の中の花はピンクが多い。斑入りや縁取りのある花もある。ピンクといえば
もう一本というか、一株の“源平下野”が咲いていて、これは濃いピンクの花のみ。源平のうちの”源”のみか?ゲンペイシモツケ、ピンクが平なのか白が源なのか判らないまま株は年々大きくなっていく。夫が地植えにしたジャーマンアイリスは紫の花を今年はたったひとつ咲かせた。梅雨入りした頃に雨の重みが大きな花の中に加わったらしく、早々に倒れて終わってしまった。やはり地植えのシンビジュウムは今はドクダミの間。花は終わっている。
今朝はカラーの花を一本失敬して飾った。虫っくいではない完璧な数少ない一本。梅雨の中休みの土曜日です。

6月4日

数年おきにおそってくる「ミシン掛け作業」が今年あって、梅雨にはいる前のほぼ1ヶ月間に「袋物」を何口か作った。以前熱海のイベント“物産展”で
古布を手に入れていて、ハサミを入れるには惜しい柄向き。大事に仕舞いすぎていて探すこと一週間。タンスの奥に見付けたときには、思わずため息が
でた。何でこんなにも下のほうに? と。小さな古布。美しい雅な柄で紅絹(もみ)というにふさわしい。三枚の古布で作った袋物を今毎日取っ替えひっかえ手に、わたしは得意。裏地はオーガンジィ。一つ、四才の姪の子にあげようと思っていたのだが、わたしが一番気に入っていて絶対に私の物と決めた一品
を「これ貸して」 という。貸してあげた。で、あげようと思うものを「これカンチャンにあげる」と言うと“いいの?” って聞いてきた。ここでわたしは
いいのよ というべきなのに ウッ ってつまっちゃた。で、結局は四才のカンチャンはどれも持ち帰らずに私の手元にある。こどもが、いいの?って
聞くくらいに手触りといい、美しい布なのだ。お手玉を入れたりして遊んでいたのが、わたしの一品。四歳児のためにかわいらしくオーガンジィの裏地を
工夫したのに置いて帰った。もう一枚布地があるからこの次までには彼女専用のものを縫おう。
それとオーガンジィ、ゴースともいうらしい布を四枚重ねにして「バッグ」を二個作った。ゴースでバラの花を作り9個づつ縫いつけて。
縫い憎い布なのでちょっと手こずった。頭のなかに描かれたバッグはとても美しいのに出来栄えは半分。一個は迷惑でも“イメージのひと”に差し上げた。
もらっていただいたというのが正しい。まあ車の中に置いていただいて、物入れにということで。もう一個はわたし用。こちらは途中から少し飽きが来て
ちょっといい加減。和裁の先生に薔薇の花の作り方を教えて上げた。5月31日の雨の土曜日。今村洋子さんというやはり手作りのモダンなバッグを手にして来られた美人の先生に。この方のバッグを真似して今度はまた何年か先に「ミシン掛け作業」をしよう。
ほぼ一ヶ月間布で遊んでいたら、今日、額縁やさんが遊びに来た。額縁の注文はなし。絵が動かない。額の注文が出来るように絵が動きますように、お祈り
しましょう。そろそろ絵を描こうと、昨日画材やさんに溶き油を注文したところだった。先月100号サイズ2点の地塗りをして大量の絵の具と溶き油を消費。溶き油が少なくなると、トーンが落ちて急に絵が描けなくなる。
梅雨。つゆの季節は夫の会社の決算時。この時期に決めたのはわたし。雨ですから、静かに帳簿の整理をするにはもっともの頃合い、と。
では、左脳を使ってからまた右脳の仕事をしましょうか。右脳が喜ぶから、左脳を少し使いましょう。儲かっていないけれど。

5月27日

ホームページを開設して一年になる。沢山の方にお立ち寄りいただいてありがたい。コンタクトはあまりないが。展覧会の海外企画や、国内企画の方面からは電話がしきり。雑誌関係もまた。最近は応じることが難しい多田祐子である。たったひとつのメセナが終了したから。
さて、田川市での展覧会のことだが、現代美術ギャラリー・to.ko.po.la さんが8月21日からの開催で11月24日まで。中10月1日に掛け替えをする。
田川市美術館は8月26日から31日まで。土曜日の8月30日夕刻6時半からパーティ・レセプションをto.ko.po.laさんのほうで計画してくださる。
この日の市美術館は閉館時間を7時と延長してくださった。市美術館とto.ko.po.laギャラリーの距離は徒歩4〜5分。大勢のかたに観ていただきたいものだ。
レンタカーを借りて、フェリーでお台場から門司経由での運送を考えている。どちらの会場も狭くない。レンタカーの大きさで、今のところは100号のS
サイズは無理ということが判った。2005年の宮城県迫桜高等学校での故郷展の折にもこのSサイズはあきらめざるを得なかった。また物置におきざりかと思うとかわいそうな気がする。物置というと悪い。倉庫です。
7月の開催でクロアチアから招聘状つき展覧会出品の要請があるが、今回は出品出来そうにない。クロアチアとの外交開設15周年事業とのこと。「千羽鶴」
外交のみにさせていただいた。
とても爽やかな5月の“雑叢園”から、ホームページ開設1周年を記念して。また。

5月25日

昨日Mr.Claudのロフトで沢山のコラージュを制作した話をした。そのなかの一点Mr. Claud をご紹介します。
私がコラージュで 彼のイメージュを 作ったなんて当の彼は知りません。その後会っていませんので。
そしてこのコラージュはただいまは動物作家で「たまご博士」の吉村卓三氏がお持ちです。よく似ている同士 というわけで。

Mr.Claud

5月24日

 ニューヨークレッドスクェアーシンフォニーハウス アルフレッドと住まひしを想ふ
「揄 雨」(雨垂れ のイメージ)という題名を付けて手作りの豆本歌集を出したのは2006年の2月。52冊という限定で、主にコレクターにのみ渡った。
カタカナ文字の歌が難しかった。という知り合いがいて、どれ? と聞くと、上記の歌。夫金城が可哀想だとのこと。ハハン。してやったり。
実は3つともアパートの名前でアルフレッドはコロンバス大学の近所。実に思わせぶりな名前で、誤解を楽しもうという気持ちが働いた。誰も言ってくれなかったからつまらない想いで数ヶ月が過ぎたころ、ひとりだけ感想を聞かせてくださった。後の人たちは皆引っかからなかったとしても、まず成功。きっと遠慮しているのだ、ということにした。
ニューヨークに行って初めはハウストン・ストリートにあるレッドスクェアーに縁があって住んだ。次に行った時もレッド・スクェアーだった。3回目が
シンフォニーハウスで、4回目がアルフレッドという。いずれも高級アパートだった。5回目6回目はコロンバスサークルの近くのホテル。この間に夫と
共に5月のゴールデンウィークに行ったときはブルックリンに住んでいたMoMoちゃんの処に厄介になった。で、9/11 の大惨事があった年の10月はギャラリーの主が自分の処に泊まることを望んでくださり、その気持ちをいただいた。毎日バスとサブウェイを一緒に乗り継いで24W,57丁目の画廊に通った。3歳年下なのに年上の気の使いようだった。次からはニューヨークで出会って友達になったChapaさんのアパートに2回お世話になった。
私は都合10回もニューヨークに行ったのだった。8回位と思っていたけれど、住んだところを思い出してみると違っている。
モノプリントの制作をしたのはホテル住まいの時。そのコロンバスサークルの近くのホテルに滞在したのは確か3回だ。ニューヨーク滞在中にアルゼンチンに行ったが、帰った時に泊まったからそれで3回だったのか。帰ったとき部屋が違っていて元の部屋に替えてもらった記憶がある。それも違っていれば
ニューヨーク行は11回ということになる。経歴に間違いがあってはならないので、もう一度記憶をたどらなければならない。アルゼンチンには日本アルゼンチン修好百周年記念事業“日本の秀作美術展”が開催されていて私も出展していたからブエノスアイレスまで一人旅をした。1998年9月だった。ついでだが、風邪をひいて日本領事館に行って風邪薬をいただいた。吉野さんという男性に。ここでお礼を言いたい。
レッドスクェアーの他にも初めの滞在時は3ヶ月間で都ホテルからMr.Claudというひげのアーティストのロフトにも住んだ。ロフトの破れ窓からジャズダンスの激しいレッスン風景を夫と一緒に見たが、いかにもニューヨークの稽古風景で、ミュージシャンのバックダンサーは斯くも激しいものかと深く記憶に残っている。Mr.Claudはその後何処かに住まいを替えた。彼の飼い猫の世話を頼まれての短い滞在だったが、ここで何枚ものコラージュ作品が出来た。勿論油絵も描いた。彼の奥さんのビデオでサウンド・オブ・ミュージックを4回も見た。奥さんは30回見たと言っていた。大きな鏡を使っての作品を制作していたMr.Claudのアパート名は生憎覚えていない。ソーホーだった。1990年12月に出掛けて1991年2月に帰国した。

画商Mr.Jainが次はいつ来る?と言ってメールをくれるのでニューヨークのことを今日は書いた。ではまた。