東日本大震災一年半

東日本大震災一年半

 9月4日午後11:30分出発で、ようやく東日本大震災慰問の旅に出ました。まず二本松市の友人の家に。大地震後1年半が過ぎるのに、未だに水道が止まったまま、というので、使用中だった井戸に水が来ているかどうかを、夫金城が水位計を使って調べる。水は涸れては居なかったことがわかり、次の段階へ。
 1年半もの間もらい水を続けている友人に同情よりも知恵を、ということで夫は時々電話で話をしている。遠いのが少々残念。
 5日午後3時、次の目的地、仙台市へ。家が半壊した知り合いのところへは、6日訪問。ご本人は病院通い。奥さまが待っていて下さって、20分の予定が3時間。お話しを伺ったり、こちらからの話しも聴いて頂き、2年前に仙台市での展覧会でお世話になったこのご家族に、お見舞いとお礼とを申し上げる。
 6日夕刻前に震度7の若柳到着。倒壊した家屋や蔵などの建築物を取り壊し、更地になった友人の処に。100年の建造物は姿を消した。文庫倉も、ない。
 やはり2年前に1ヶ月以上の展覧会を開催してくださった画廊主や、留守番をかって出て下さった友人にご挨拶。
 我が故郷若柳は、その2年ほど前に、岩手宮城内陸大地震があって、栗駒方面で大被害があったばかり。崩落現場の近くで、子供たちとその風景を絵に残したばかりだった。
 9日の日曜日。小学校の元校長だった従弟が案内と運転を引き受けてくれて、岩手県へ。気仙沼から陸前高田市、大槌町、山田町へ。大槌町御社地に住んでいた、陶芸家小川延海氏、久美子夫妻にお線香を手向け、人気のない大地で一人草刈りをしていた青年に供養の菓子とコロッケをもらって頂く。この青年がいなかったら、全く住まいは判らなかった。伸びた草以外何もないから。御社地ということでは、大きな石が建っていたが、倒れている石もあった。この青年のお祖母さんもここの御社地の建物の2階にいて波にさらわれ、お亡くなりになったという。夫金城は小川氏とは年齢が近かったこと、近年の手紙や年賀状の文章に鬼気迫るものがあったことを思い、思わず涙していた。生活に困ったときに、少し送金して、お皿や、壷を送ってもらったりしたことがあって、それらのものが遺品として今我が家にはある。
 山田町の大浦仮設住宅には迷うことなく、時間前に到着。従弟は災害対策チーム「桜士(さくらもののふ)」の会を当初から発足。岩手県にも何度も通っているので頼りにした。道が不慣れな我々だけでは、あっち!こっち!といってけんかばかりになること必定。時間ばかり食うところ。助かった。
 ここでは、初めてお目にかかる人だが、郷土史研究会の会長さん。奥さまにもお会いして、買い物にも不便な仮設住宅生活を見せて頂く。狭い。玄関先に風と雪と雨除けが付けられて、いわゆるポーチだがこれが付けられて大助かりです、と、会長さんは仰った。慰問品はとても足りなかったが、我々が出来ることで、限界在り。遠野市経由で帰路に。遠野市にも訪問したかったが、日曜日とあって、道の駅に立ち寄り、お買い物で少しお金を遣わせて頂く。
 10日宮城県の湾岸沿いを下る。志津川市、吉浜小、大川小、雄勝、女川市、石巻市、松島市と被災地の瓦礫と、ここに住んではいけないんだよ! という有様を伸びた草のたくましさと共に、感慨、悲しい。ところどころで、お焼香。風が草に火を移さないように、小石を集めて、囲う夫。
 大川小学校の祭壇には向日葵の花。おそらく亡くなった児童と先生の数だけあったに違いない。数えはしなかったが。ここで、以前赴任していたと仰る先生に会う。一緒にお焼香を。日曜日には何処でも人影はほとんど無かったが、月曜日はボランティアで働く人達や、測量に勤しむお役所の方がたが見え、最早なくなったお菓子、もっと持参すべきだったと思う。コロッケもない。コロッケが傷まないようにドライアイスを6000円分買ったが、昨日が賞味期限であった。
 松島では日暮れて、ただ2年前に食事をした処が無事かどうかを金城は確かめたかったらしく、車の中から、覗いて、あった!あったと嬉しそう。
 瑞巌寺には最早時間的に立ち寄れず。真っ暗になってしまう。

 2日前にブログ中、指が変なところを押して全てパッ! と消える。

 気を取り直して本日ブログしました。第一回目の慰問の旅でした。これからも時間と健康とお金に余裕が出来次第実行していきます。

 水底や皆で励んで学び欲し 大川小の向日葵の花

この3日後に伐られた
陸前高田市の一本松
この3日後に伐られた
向日葵のはな
大川小学校の祭壇
向日葵のはな