小野田寛郎さん逝く

小野田寛郎さん逝く

 小野田寛郎さんをルパング島に捜索に行き、帰国に導いた末次一郎さんの元で当時を世過ぎしていた私の思い出を、小野田さんの追悼を込めて記しておきたい。
昭和49年、50年は、「陸軍中野学校」という情報将校を養成する学校の卒業生、同期の方々が入れ代わり立ち替わり、捜索隊長の末次一郎さんを事務所に訪れて、フィリピンはルパング島に出掛けて行った。末次一郎さんは平成13年7月に78歳でその一生を一期とした。引き揚げ運動や沖縄復帰運動に取り組み、北方領土返還運動を促進し、安全保障問題研究会などを主宰。他に、「青年の船」や、「JAICA」の窓口となっていた。姉は「青年の船」で、仙台の短大を卒業後に、東南アジアの国々を巡ってきた。末次さんと我々の父親とは親交があって、私は学生の頃から、出入りしていた末次事務所に何時の間にか落ち着いていたが、掃除、電話番、会計など何でも担当。
 小野田さん捜索の時や、安全保障問題研究会の京都会議の頃には、永田町の一軒家、総理府(当時)今は内閣府の直ぐ下辺りに事務所はあった。岩手県東京事務所が後ろにあり、植え込みに沈丁花の花が春一番で咲いて、その香りから何時も勇気をもらっていた気がする。
 小野田さんの捜索隊の飛行機がフィリピンで炎上したことがあったが、さまざまな物資を調達する苦労が思い出される。当時は皆さん、洗濯のことなどからか、フンドシを準備した。直ぐに乾く、からだったと思うが。末次さんの奥さまは、あの時、はたして何枚のフンドシを縫ったのだろうか。私の苦労は、冬に蚊取線香を集めることだった。
お湯を注いででき上がるパック入りのご飯も、そうとう買いこんだ。事務所の中が一杯になるほどの物資が所狭しと積まれた。小野田さんに合う時のためにお赤飯のパックも準備した。政府による大捜索隊とは別ものだった。今は亡き青年探検家 鈴木紀夫さんにもお会いした。鈴木紀夫さんが単身乗り込んだルパング島。彼がいなかったら、山中で29年の間独り戦い続けた小野田さんは、どうなったかなど考えまい。鈴木紀夫さんは、ヒマラヤに雪男を探しに行き、標高3,800メートルの地点で、遭難。38歳だった。鈴木青年が亡くなった時「彼の勇気と機転がなかったら私は島を出ることはなかったでしょう」と、遭難現場まで慰霊の旅に出た小野田さんだった。若い冒険家との年賀状のやりとりは当然その時に終わった。
 あれから随分と月日が流れ去った。小野田さん夫妻と再会したのは、末次一郎さんが亡くなって、ご自宅までお焼香に訪問した時。葬儀は青山葬儀場であって、中曽根康弘元首相が葬儀委員長だった。元首相の多く、議員団の列席を見、あらためて末次さんの偉大さを見た葬儀であった。その葬儀に間に合わなかったと言って、アメリカから友人が来た。大学時代の学外活動で一緒だった、野口君(今もニューヨークで事業家として活躍)。電話で、“一緒に行ってよ、僕お線香あげたい”。東京で落ち合って、世田ヶ谷のご自宅に、伺うと、小野田さん夫妻がおられた。あれからでも13年。私は “絵描きになる!”、ために末次事務所を急に辞めて、40年。辞めても“手伝ってよ” との事務局の声に、京都での国際会議や、小野田さんの捜索に関わった。安保研の京都国際会議ではいわゆる、あご、あし、やど担当。飛行機や新幹線、ホテル、食事の人数、時間、移動時間、入国時間、出国時間に併せて、宿泊人数の加減調整など。現在、どれほど役立っているか知れない。通訳はできなかったし、今以て語学はからっきし。当時通訳担当の人達とは今も昵懇にさせてもらっている。

末次事務所で。1975年春。
義母が少し真面目に“これは誰?”と。小野田さんで、解決
末次事務所で。1975年春。